別冊キラン|パキスタンで紙漉きを始めた理由 田島伸二












識字は哲学や方向性を持たなければならない

その昔、私は「びっくり星の伝説」という物語を書いたことがある。この物語の英文名は The Legend of Planet Surprise といい、アジア地域では20ヶ国語以上に翻訳出版された。

この物語の中で、人間という存在は「言葉と手」をもっているために他の生物とは異なって、非常にユニークな文明を築くことができたことを題材とした。

とくに「言葉」は目に見えない世界や事物を容易に描写し想像させることができたが、人間の「手」はそれを実際に目に見える世界に具体化させることができる。

この両者の協力によって、人間は文明を発達させたが、その使い方を誤ったために人間の文明が崩壊してしまったという物語である。

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1998年5月、私はパキスタンのパンジャブ州の農村地域でノンフォーマル(寺子屋)学校を二百校設立する式典に出席した時、連邦政府の教育大臣の口から次のような祝辞を聞いた。

「今日、我が国には10数人のカディール・ハーン博士のような能力と技術をもつ科学者が存在している。彼らの努力によって今日、我々は素晴らしい科学技術を達成することができたが、識字教育はこのように科学技術の発展に大きく貢献するものでないといけない。学校がますます増えることによって、我が国の核開発がますます進展していくことを希望している。云々」

私はこれを聞いて怒りが込み上げてきた。

カディール・ハーン氏とはパキスタンの原爆開発の父とも言われる有名な科学者である。しかし、識字教育が核開発のような目的のために使われるものならば、その識字教育とは完全に間違っている

そこで私は、、咄嗟にその為政者の発言した識字に関して、ヒューマン・リテラシーという新しい概念を考えついた。

識字は哲学や方向性を持たなければならない。識字とはただ単に読み書き計算ができるかどうかの技術能力の問題ではなく、豊かな人間性を有し、普遍的な目的や内容をめざすものでなくてはならない。

人を不幸にし、人を殺す識字がこれまでの歴史でどれだけ推進されてきたことか、そして現在もまたそれは続いている。

文字によって表現される知識や技術は、人間のありかた全体に真摯なる責任をもたなければならない。識字とは人を生かし、争いをなくし、人間同士が信頼できる世界をつくるためにこそ存在する

ひるがえって日本の現実を考えるとき、今の日本の文字や知識、情報や技術は人々が果して幸せになるように使われているであろうかと思えた。

それは日本だけではない。アメリカの識字教育はどこに向かっているのか? それは人々を幸せにし、平和を推進させるものなのか?

そのため、私は、ヒューマン・リテラシーインデックス(HDI)という新しい考えを書き始めた。

式典が終了し、約6時間のドライブでイスラマバードへ帰宅した日の夕方、パキスタンがインドに対抗して初の原爆実験をチャガイ丘陵で行ったという知らせを聞いた。

1998年5月のことであった。