別冊キラン|パキスタンで紙漉きを始めた理由 田島伸二












紙の使用量と教育の関係は正比例している

1998年頃、私はパキスタンの寺子屋式の小学校を訪問しているとき、子どもたちから口々に「コピーをください」と求められた。コピーとはいったい何の意味か、初めはわからなかったが、すぐにノートを意味していることがわかった。

通常、ほとんどすべての学校では五歳から十四歳までの子どもたちは、羽子板のような板版に白土を塗って乾かし上に、水に溶いた粉インクを竹ペンにつけて書いていた。

これは何度でも書き直しできるので随分便利なものだと思っていたが、反面、次に書くときには塗り直さなくてはいけないので、実にやっかいだ。冬の寒い時にはたくさんの子どもたちがこのタクテイ(板版)を塗り直すために小川で洗っている風景を目にしたが、実に寒そうだった。しかも冬日なので土で塗り直してもなかなか乾かない。

しかし子どもたちが、直面している問題は、そうではなく、書いたものや記録をすべて消さなければならないということが問題だったのだ。

考えてみると文字や絵は紙に書いて記録しないと確かな記録とはならない。浜辺の砂文字のように、波に消される運命にあるものかも知れないものは不確かだ。識字と紙は表裏の関係にあり、人は岩や紙や皮などに文字を書いて情報を保存したとき、初めて表現や伝達の喜びをかみしめたのではなかったか。

紙の使用量と教育の関係は正比例している。紙は文化のバロメーターともいうが、ノートにしても絵本にしても、日本を含め先進諸国では無尽蔵の紙を消費している様相がある。それも他国の森林伐採などの犠牲によって。

しかしパキスタンのような途上国のほとんどは、紙パルプを自国で生産することは少なく、輸入品が多い。だから、ノート類にしても非常に値段が高い。

そこで、私は困ってしまった。

子どもたちの要請にどう答えるか考え続けていたとき、沖縄のさとうきびの残滓(バガス)から紙が作られているのを知った。

「そうだ。サトウキビならパキスタンにはたくさんある。砂糖を搾り取ったあとの残滓は燃料にするか、家畜の飼料にするかである。これを使ったら」

早速自宅に工房を設置した。それから庭や野山に生えている植物の繊維はすべて試みようとバナナの幹や葉(バナナの実を収穫すると切り倒す)、竹のささ、野生の桑の皮、茅、びわの葉、麦わら、稲わらなどを使って紙漉きをはじめたのであった。

最初はせんべいみたいな厚さであったが、日本の和紙の漉き方のような独自な創意工夫を重ね、三重大学の木村先生や和子さん、三塚さん、重栖さん、黒川さんなど多数の友人の協力などを得て、とうとう一年後にはどのような雑草からも簡単に紙が漉けるようになった。

とくにパキスタンの夏日にあわせて素早く紙を板に脹れる新しい方法も開発できたのは効果的だった。

これを見て人々は驚嘆した。バナナの緑の葉から紙ができる。サトウキビの残滓から紙ができるというニュースはあっという間に広まっていった。

そこで私は特定の人々だけにこうした技術が伝わると、すぐに技術の特権グループができると思われたので、なるべく多くの人々に教えようと決意した。なかでも社会的に恵まれていない環境に生きている人々に真っ先に伝えようと思った。紙作りと識字教育を効果的に結びつけるためにも。

まず最初に紙漉きを伝える地として選んだのは、アフガニスタンの国境近くに住んでいる非イスラム教徒の人口はわずか約5千人という少数民族のカラーシャの人々であった。

谷川に生えている柳の皮や使い古しの紙箱などを使って次々と紙を漉き始めた。最初に好奇心に満ちた眼で集まったのはたくさんの子どもたちであった。かれらは不思議なものでも見るように食い入る様に見つめていた。

やがてカラーシャの若者たちが、成人女性、最後には長老までがこの紙漉きに参加した。紙という存在が都市から送られてくるのを待つのではなく、自分たちの力で紙を創造する、という自信に満ちた彼らの喜びの顔を忘れることができない。

しかも漉きあげた紙を板に張りだし、乾くとすぐにその紙を剥がして、その上に若者たちは線画を使って思い思いの絵を、線画を使ってカラフルに描き始めた。

文字をもたない村に伝わってきたさまざまの動物や人間や生活を。識字の原点の喜びが刻まれ始め、長い間、表現したいと思っていたカラーシャの人々の心に灯がともった瞬間だった。

おもしろいことに描かれたすべての動物は糞をしている。生きているという証しなのか。それをじっと見つめている子どもたちの目。その輝く目やその場こそ私の求めていたコミュニテイのノンフォーマル教育の現場であったのだ。

自分たちの文化を表現でき、それを記録できる驚きと喜びが入り混じりながらカラーシャの人々のワークショップは続いた。

カラーシャの村に嫁いでいる日本人のわだ晶子さんは、若者たちに情熱をもって指導し、このワークショップを通じて、人々は自分たちを実に生き生きと表現し始めた。

とくに子どもたちや若い女性たちは夢中だった。それからは新しい絵本や絵葉書などをクルミの殻を炭にして作った墨で描きはじめるようになり、紙漉きは収入向上にも貢献し村おこしの重要な役割を演じ始めた。

この日はその記念すべき最初の日となった。

また、全国の農村地域で子どもたちを教えている女性の教師、キリスト教徒のNGOや障害者の子どもたちにも教えた。知的障害のある子どもは、自分で漉いた紙に絵を描きそれを受け取った人々の嬉しそうな表情を見て、大喜びし表現することに自信をつけ始めた。

そしてラホール、イスラマバード、カラチ、ハイデラバードなど全国の大学の芸術関係者なども含め五十五回のワークショップを開催した。

自宅の工房へはイスラムの聖なる金曜日にも休日の日曜日にも人の絶えることはなかった。

そして、千五百人を超える人々がこの技術を手にしたのである









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