別冊キラン|刑務所の子どもを救え 田島伸二

















無実の子どもたちが多数刑務所に入っている

アジア・太平洋地域で識字教育や基礎教育の仕事に携わってきて痛感したことーそれは社会の中で最も抑圧され、最も困難な状況の中に生きている子どもとはいったいどこにいるのか、そして彼らが一番求めているものはいったいなにかということであった。

もちろんすべての人にとって戦争のない平和が一番重要だし、生存のためには衣食住のような物理的環境がよく整備されていることは基本的に最も重要であるのは間違いないが、人間という存在は、物的なことだけではなく、精神や心の自由があってこそ幸福に存在するように思える。

精神や心の自由などが存在しないといかに物的な環境が整えられても、人間は幸せを感じないし、生の充足感を得ることができない。この人間の豊かな精神活動を支える根拠には―豊かな言葉があり、人や社会とコミュニケーションできる文字があり、人間性を高める表現活動のすべてが存在しているが―そこに識字の課題がすべて存在しているように思えた。特に変化の激しい21世紀には、文字で表現し、文字を通じて情報を受け取ることのできる識字の力を持っていなかったら生きていけない。

世界は今、人口が爆発的に増えている。そして爆発的に増えているほとんどは最貧下層の人々が圧倒的である。そうした子どもたちが文字の読み書きができる識字力の機会を与えられるであろうか? 否!彼らは社会の変化からは、すべて取り残されている。ここに情報化社会における貧富の絶大なるギャップが誕生し、世界の不安定要因を作りだしていく。

あるとき私はタイの海岸地域にあるスラムに住む人々の識字調査を行ったことがあるが、どのような貧しい家屋にもテレビだけは必ず設置してあった。スラムの人々は十年にもわたる月賦でテレビを購入するらしかったが、それは現代の生きた知識や情報を獲得するにはどうしても必要なメディアであったのだ。

そこで住民調査をいっているとき、非識字者であるかれらに文字の読み書きについて尋ねてみると全員が一斉に「読み書きができるようになりたい!」と叫んできたので、「テレビがあれば知識や情報はいくらでも入るのでない? なぜ読み書きがしたいの」と尋ねると、かれらは「テレビの画面に映しだされるタイ文字を読みたいから」と答えた。それは画面に映し出された新製品の値段や内容についてのコマーシャルなのであった。

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1998年の暮れ、私はパキスタン政府の社会福祉省の青少年福祉を担当している職員の依頼で、刑務所に収容されている子どものための識字教育活動に協力する機会を得た。

当時、私はJICAからパキスタン政府へ識字専門家として派遣され、連邦政府首相識字委員会(PMLC)のアドバイザーをしていた。私は刑務所に収容された子どもたちの実情について全く知らなかったので、まずその職員に全パキスタンで収容されている子どもの数字や実情を記した資料を要請した。

しかし、いつまでたっても、福祉省の職員から報告書や数字らしい数字が示されない。そこで私は職員に厳しく質問した。

「なぜ、いろいろの数字を教えてくれないのですか。客観的な実情を知っておかないと、つまり子どもたちが何ヶ所の刑務所にどのくらいの数で収容されており、どのような状況におかれているかを知らないと何も対処できないのはおわかりでしょう? それとも、上司から外国人にはそのような詳しい実情を話すなと口止めされているのでは?」

冗談めかしてそう問いかけると、彼女は最初は強く否定していたが、やがて「はい。そうです。」と素直にうなずいた。

そして上司との話しあいの結果、うまく許可を得ることも出来て私にその書類を見せてくれた。それは全国にある約80箇所の刑務所に約7000人の子どもたちが収容されている書類であった。

こうした数字を正確に掴むことはなかなか容易ではない。私はどの国でも、刑務所に収容された子どもたちの問題に取り組むのが困難なことは知っている。青少年の犯罪は、社会的にも深刻な課題で、特に国際的な人権問題としても広がることを各国政府は極力恐れているからだ。内部の事情は漏らさないものだ。


しかし、私は「もし識字教育の協力が必要でしたら、病院の医者のように怪我をした患部を見せて下さい。頭に怪我をしているのに足に包帯を巻いてもなんにもなりませんからね。」と言って、刑務所の実態調査をすることを強く要請した。

こうして私は1998年に、ラワルピンディの郊外にあるアディアラ中央刑務所に初めて足を踏み入れた。そこには約4000人以上の大人と約200人を超える子どもたち(10歳から18歳)が収容されている大きな監房があった。看守がいかにも威厳をもって警棒を振り回している。

聞き取り調査の結果、貧困や無知のために犯罪者に仕立てられた無実の子どもたち、大人の犯罪に利用された多数の子どもたちの話をいろいろと聞いた。窃盗、麻薬運び、殺人、浮浪罪などあらゆる罪名がつけられていた。

家庭の貧しさからくる無数の小さなジャンバルジャンの目を多数牢獄に見た。調査のとき、「助けてください。僕は誰も殺していない。僕が捕まっていることを家族に知らせて下さい!」と訴えてきた子どもがいた。これは犯罪を犯した大人が、無知な貧しい子どもを犯罪者に仕立てたケースだった。

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すぐに弁護士に連絡し、救援活動も始まった。

リーガル・リテラシーという言葉がある。これは法的な必要な知識や情報能力などを意味しているが、自由に知識や情報を選択できる子どもたちは、世界では非常に限られている。

多くの子どもたちがパキスタンでは犯罪人に仕立てられている。特に数多く存在しているのが境界をめぐっての家同士の争いで、殺人が行われたようなときには、その首謀者には必ず子どもを使うのである。

子どもを警察に突き出すのは、社会習慣ともなっているようで、彼らは決して死刑にはならない。大人は罪を逃れる。ペシャワールのような地域から麻薬を運ぶ仕事を、なにも知らない子どもたちに強制している犯罪マフィアなど、貧困な子どもを利用した犯罪が増加している。そして、無実の子どもたちが多数刑務所に入っている

そして、ほとんどの場合彼らは10年以上の刑に服しても、ほとんど復帰できるような環境には置かれないので、結局社会に復帰出来ず再犯で生涯を刑務所で暮らす多くの子どもたちの存在があった。

こうした状況は、パキスタンに限らず世界的な傾向であるが、近年は何も知らない子どもたちに大人が武器を渡して、戦争の担い手にする子どもの数が激増している。

大人は子どもを利用して生き血を吸って生きているのだと私は思った。

こうした環境の中で、知識や想像力は、子どもたちの精神的な大きな癒しになり、拠り所になり、自立の力となるはずだと思った。

私は牢獄の中でなんの輝きもないうつろな目つきをしている大勢の子どもを見てなんとかして、家庭や社会や知識から遮断された子どもたちを救いたいと思った! 

知識や本を読む喜びは富裕な人々だけのものではない