別冊キラン|2014国際文学会議「識字と文学」 田島伸二














人間が発明したものの中で、文字(識字)というのは実に不思議なものである。文字は、知識や情報を簡単に貯蔵する事ができるし、簡単に加工することも、時間や空間を越えて世界に即座に伝えることもできる。

文字は人間の思考や活動を記録したり、人々の表現やコミュニケーション能力を育て、現実社会を大きく変革させる原動力ともなってきた。現代の文明はそのおかげだ。

しかし、現在、全世界の成人のうちなんと十億人もの人々は、この文字の読み書きが全くできず、非識字者と呼ばれている。戦火にあったアフガニスタンやカンボジアは、世界で最も識字率が低く、農村地域の多くの成人ー特に女性たちは読み書きができない。

そして現在世界では、経済面だけでなく世界の識字者と非識字者との間に、知識や情報の巨大 なギャップが生じており、非識字者の三分の二は我々のアジア地域に集中している。

貧困と識字は、密接な関係にあり、識字率の低さが、主要な貧困を作りだしているのは紛れない事実である。そのため識字率を高めようと、人間社会はあらゆる努力を傾けてきた。

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では識字力があればすべて世の中の問題が解決するかというとそうではない。広島に生れた私はこの頃、人間の進化や発展について、ひどく否定的な気持ちとなっている。

特に2011年、日本で起きた3.11の福島の凄絶な原発事故を経験してみると、われわれの文明は光やエネルギーを求めて、膨大な知識や情報、そして最先端の科学によって豊かな社会を求めてきたが、その多くはすべてが悪夢のように危険なものだと思うようになった。

考えて振り返ってみれが、原発のように人間が科学を活用して作りだす世界は、現在、遺伝子・染色体の研究、ロボットの戦争での利用などなど、なんでも世の中は便利になり、科学技術によって生活がいよいよ発展しているように見えながらも、それは決して発展しているのではなく、より複雑に、より深刻になっているだけではないかと思えてくる。

膨大な識字力や情報は、果たして人間を幸せにしているのか?人間の識字能力の発展とは、果たして社会を幸せなものにしているのか?

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日本の福島をみてみよう。福島では、2011年の大地震によって4基の原発で深刻な事故が発生して、炉心のメルトダウンによって、日本には破滅的な社会が形成されている。そして福島だけでなくて、日本や世界の多くの子どもや女性たちが健康の重大な危機にさらされている。

そして太平洋には、原発の炉心溶融した高濃度の放射能が日夜にわたって無制限に、大気へ、大地へ、海洋へと放まき散らされている。これをコントロールする知識も技術も日本は持っていない。最も識字率の高い国がこうした窮地に追い込まれているのが。要は、われわれの識字の哲学や方向性が誤っているということなのだ。知識や技術は、日本人を幸せにしていない。

こうした文明世界を作りだしたのは、ほかでもない。「識字」という人間の文明を形成する表現力や思考力であり、言葉によって作られている世界なのだが、原発保有とは、識字率が高い国ほどたくさん保有しているのが事実。

識字は、文化や科学や社会などの基礎をつくるコミュニケーションの力としても大きく作用してきたが、現代の識字には哲学がない。方向性も持たない。識字とは、単純に3R”読み書き計算能力”を示しているように見えるだけだ。そこには人間を人間として大切にしようとする力も機能も働いていない。

つまり識字という便利は”道具”はなんにでも使えるのだが、目的を誤るとそれは核兵器になり、核の平和利用の原発というものになり、何千年も何万年も地球や自然を壊し続けていく放射能を生み出していく凶器なのだ。

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その昔、私は「びっくり星の伝説」という物語を書いたことがある。物語の中で人間という存在は「言葉と手」をもっているために他の生物とは異なって、非常にユニークな文明を築くことが可能となり、とくに「言葉」は目に見えない世界や事物を容易に描写し想像させることができたが、人間の「手」はそれを実際に目に見える世界に具体化させることができ、この両者の協力によって人間は文明を発達させたが、その使い方を誤ったために人間の文明が消滅しという物語である。

1998年5月、私はパンジャブ州の農村地域でノンフォーマル学校を二百校設立する式典に出席した時、文部大臣の口から次のような祝辞を聞いた。「今日、我が国には10数人のカディール・ハーン博士のような科学者が存在している。

彼らの努力によって今日、我々は素晴らしい科学技術を達成することができたが、識字教育とはこのような科学技術の発展に大きく貢献するものである。学校がますます増えることによって、我が国の核開発がますます進展していくことを希望する。云々」

私はこれを聞き怒りが込み上げてきた。カディール・ハーン氏とはパキスタンの原爆開発の父とも言われる有名な科学者である。もし識字が核開発のような目的のために使われるものならば、その識字は完全に間違っている。」

そして、咄嗟に私はその為政者が発言した識字に関し、ヒューマン・リテラシーという新しい概念を考えついた。「識字は哲学や方向性を持たなければならない。識字とはただ単に読み書き計算ができるかどうかの技術能力の問題ではなく、豊かな人間性を有し、普遍的な目的や内容をめざすものでなくてはならない。人を不幸にし、人を殺す識字がこれまでの歴史でどれだけ推進されてきたことか、そして現在もまたそれは続いている。文字によって表現される知識や技術は、人間のありかた全体に真摯なる責任をもたなければならない。識字とは人を生かし、争いをなくし、人間同士が信頼できる世界をつくるためにこそ存在する。」 

そう考えて、ひるがえって日本の現実を考えるとき、今の日本の文字や知識、情報や技術は人々が果たして幸せになるように使われているであろうかとも思えた。そのためヒューマン・リテラシーインデックス(HDI)という新しい概念を書き始めた。

式典が終了し、約6時間のドライブのあとイスラマバードへ帰宅した日の夕方、パキスタンがインドに対抗して初の原爆実験をチャガイ丘陵で行ったという知らせを聞いた。

私は、こうした誤った方向性をもつ識字を、人間的な立場へ取り戻せる力を有しているのは、実は文学の力や人間哲学(ヒューマン・リテラシー)ではないかと思う。

文学は、「いかにして人間は、自由をめざしながらも苦悩や虚偽の中から真実や喜びを生み出そうとする存在」を如実に示してくれ、また文学は、多様な古代からの物語りの口承を通じて、生きる喜びや感謝への世界へ招待してくれる。

本当の人間的な識字は、社会や人間の真実を追求するのに必要で、子どもたちに、豊かな世界とはなにかを広く深く考えさせるてくれる。識字は、単独では政治家の戦争の道具 や文明の破壊にもつながっていくが、悩みながらも美しいものを作り出す文学を通じて共同作業をすることによって、初めて識字は人間性を進化させることができるというものだ。ここにこそ「文学を通じての識字の形成」という今日的な課題が出てくる。

2014年 1月25日

インド デリーにて