別冊キラン|ベルリン国際文学祭で感じたこと 田島伸二





















ベルリン国際文学祭で感じたこと

2001年6月14日、ドイツのベルリンで第1回国際文学祭が開催され、私は、全世界の作家や詩人とともに、招聘を受けた。

アメリカや中国の作家とともに、それぞれ自作の朗読を三回行った。これはユネスコ(国連教育科学文化機関)本部の協力をはじめ、ドイツ文学界・ベルリン議会、ヨーロッパ文学界、国際ペンクラブ、ドイツ連邦銀行など多数の国際団体や経済界が協力して初めて世界的な規模で開催したもので、ベルリン市が国際映画祭や音楽祭に次いで今後大きく力を入れようとしているもの。

これからは毎年開催されていくという。大人の文学も児童文学も両方を合同で開催しようとする画期的なもの。これは今まで、オランダのロッテルダムで開かれていた国際詩人フェステイバルのアイデアを基として、全作品は詩を朗読するようにそれぞれの作家によってオリジナルの言葉で朗読された。

スペインのバスク語、クロアチア語、ヒンデイ語、日本語、中国語が10日間にわたって会場に響いた。文学祭ではいずれの作家も自らの作品を自国の言葉で朗読したが、ドイツ語にも翻訳されて、それぞれの作品はドイツの俳優たちによってドイツ語による朗読が行われた。

1篇1篇の物語をすべて異なった俳優が朗読するというかれらの文学にたいする熱意には全く驚いた。各国の作家が母語で作品を語るように、私も1篇の作品「さびしい狐、コンキチ」を私の出身地である広島弁で朗読してみた。広島弁の土着的でも豊かな方言の音声を伝えたてみたかったのだ。

書き言葉は、日本語の標準語であるので、一晩かかってそれを広島弁にしてみた。広島弁で物語りを朗読すると、「・あったそうだ。」が「・あったんじゃげな。」に変わり、「・・・どうしても」が「・・・どがーしても」、「・・してはいけませんよ」が「・・・・しちゃあいけんで」に変化する。

なるほど広島弁で物語を音読してみると、標準語とは全く異なった地方の豊かな言葉の実感がじわっと伝わっていく。感情も出せるし、メリハリもきく。方言の世界は素晴らしい。そういう意味では、母語とは豊かな方言を指しているものだと思う。

ベルリンの国際文学祭で広島弁で自作品を朗読するとは考えてもみなかったが、広島弁で朗読しているうちに、私自身いつの間にか、故郷の三次の山の中に住む一匹のキツネになって野山を駆け回っていた。

そしてこのキツネは日本だけでなくアジア各国の友人のことを思い出しながら走り回っていた。この作品はこれまでアジアの国々では、28言語で翻訳出版されているが、ヨーロッパではまだ紹介されていなかったので、今回は、参加したベルリンの子どもたちの意見を聞くいい機会となった。

私の朗読の後に、ドイツの著名な女優を含めて3人の俳優がドイツ語で朗読した。実にうまかった。ナオミ・クラウスという全ヨーロッパで活躍している女優で、感情を込めながら、劇的に物語を朗読した。通訳は、ベルリン大学で日本文学の研究者であった。

開催場所は、東ベルリンに位置する街中で、かってローザルクセンブルクやリープクネヒトが演説したという歴史的に由緒ある古い劇場やブレヒトが設立したというベルリーナアンサンブルなどが使われてた。ベルリンでの白夜の中、夜更けるまでビール片手に多数の作家による交流が行われた。

日本からは国際交流基金の協力で、詩人の白石かずこ氏や児童文学者の松岡享子氏が国際審査員として出席し、白石氏は特に3回にわたって彼女の詩を日本語で朗読して会場の高い評価を得た。

私が朗読した3篇の物語は、1999年にオックスフォード大学より英文で出版された3冊の自著のうちの「さびしいキツネ」及び「雲の夢想録」の中からパキスタンの刑務所内に昨年設置した「キラン図書館」の物語、パキスタンの寒村の児童労働を描いたガタワナ(パシュトゥ語の意で大きな木)という物語3篇であった。

「さびしいキツネ」の物語は、環境破壊で故郷の山を離れ、やむなく人間になったキツネが、会社人間となって、いつの間にか毛皮を獲りに故郷の山に向かう物語であるが、これを朗読したとき、参加したベルリンの子供たちに言い知れぬショックが広がっているのを感じた。

それはヨーロッパ社会が持っている毛皮や動物にたいする問いかけでもあったのだろうか。朗読後、ベルリンの子どもたちから「人間と動物との関係、あるいは自然と人間との関係、「この物語に対するアジアの子どもたちの感想など」質問と握手が殺到した。こんなに大きな反応があるとは思ってもみなかった。

ベルリンで出会った世界の多数の作家たちと「人間と自然について」、「統一後のドイツの苦悩」、「アジアの子どもの現実」、「東と西ドイツ」、「グローバル化と言葉について」、「ベルリンの壁」など、短期間ではあったが、実におもしろい対話が多数の作家や詩人たちと行なわれた。いずれも社会の事実や人間の思いを、文学でどれだけどこまで想像力をもって表現できるか? 」ということを考えさせるものであった。

とりわけ歴史の中で起きたことや現在進行していることを、「どのように豊かな想像力をもって次世代に伝える努力をしているか?」という問いかけでもあったように思う。

ベルリンの町は、ユダヤ人の虐殺の歴史やナチスの弾圧の記憶を鮮明に随所に残しているが、それを目前にして、「日本人は今、これまでの近隣諸国との歴史関係や事実をどのように把握し、表現し、伝えていこうと努力しているのか? 」深刻に考えなければならないことを痛感した。「人は最初に本を焼き、次に人を焼く。」

詩人のハイネの言葉はプレートとしてフンボルト大学の中庭にあった。この場所はナチスによって多数の焚書が行われた歴史的な場所でもあり、中庭の小さなガラス張りの地下に焚書が行われた白塗りの書架が透けて見えたが、それはナチスの蛮行の歴史事実を強烈に想像させ、知識や文学を消し去っていった時間が如実に蘇ってくるのを感じた。

なぜドイツではなぜこのように歴史の記憶がきちんと残されていくのか?という私の質問に、ドイツのある映画監督は「ドイツの50年とは、全世界から一挙手一投足をすべて監視され、厳しく批判されてきたからだという。

「この間、ドイツ人はなにも悪いことはできなかった」と言ったが、日本と異なり、ドイツはきちんと自らの戦争責任について謝罪し、戦争被害者への補償も行ってきている。

一方、日本ではなにも明確に行われてはいない。歴史認識も韓国や中国の人々の鋭い批判に囲まれて辛うじて謝罪を時々繰り返しながら生き残ってきた。日本人自身が自ら責任を明らかにした本質的な謝罪ではまったくないように思う。特に21世紀を生きる子どもたちに歴史を風化させることなく正確に伝えていくことは20世紀を体験した者の最大の義務だと思う。

日本では今、リストラや不況の波の中であらゆるものが大きく変わっていこうとしているが、アジアの人々の心を踏みにじる非常に狭い歴史認識が子どもたちの実感や認識を正確に形成することなく進行させてはならない。

ドイツ人は今、世界の著名な建築家によるデザインで建設物を次々とベルリンに作っているが、同時に21世紀に必要な人間の精神的な根拠やこころのありかも必死でさぐろうともがいているようにも思えた。

ベルリンは今、パリやロンドンとは異なる新しく独創的なグローバルシティの創設をも目指しているようだ。それはドイツのベルリンといった世界ではなく、世界と一緒に歩むことを決めた国際都市ベルリンの出現を意味するようにも思えた。

ドイツは、トルコ人やギリシャ人など多数の外国人労働者や移民をかかえて苦悩しながらも、移民法を積極的に推進していて、ドイツ人のこれからの生き方とも大きく関っているようである。

外側だけの見栄や体裁、マーケットエコノミーを念頭に置く現代のデザイン世界を求めるのではなく、生きた歴史をもとに人間の内面性や精神性を言葉や文学を通してグローバルな形で必死に探ろうとしているかのようである。

私が今回の文学祭から感じたものは、文学は人間の精神世界を切り開く人間の存在にとって不可欠な存在だった。

文学祭にはアフリカのアパルトヘイトの闘いを描き 1991年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカの作家、エジプト、クロアチア、ボスニアなどから多彩な作家が集合したが、厳しい歴史の中をたくましく生き抜いてきたと思える人間だけに、いずれも人間的な魅力に富み、しかもいずれも謙虚な人柄でもあった。

彼らの表現世界はいずれも「人間の豊かな感性や想像力をもって作り出していく言葉や物語こそが、国境を越えての人間の連帯やよりよく生きるための大きなとなりうる」ことを強く感じさせるものであった。

「人間の歴史を忘れないため」あるいは「歴史の中で作られた痛みや傷口から生まれた人間の知恵」を次世代へ確実に伝えていくために」行われているたくましい努力を感じさせるものであった。

時として私は、昨年まで3年半にわたってパキスタンで行っていた識字教育活動を思い出しながら、「文字を獲得できている者は幸いだ。文字を通じて世界や歴史と対話できるのだから・・・しかし世界には文字を持たない,持てない貧しい人々が多数存在している。」と思ったが・・・しかしだからこそ、これからの大きな課題は、21世紀とは口承伝承をも含む豊かな文学を世界の人々とともに創造していく役割があるとも確信した。

同時に、文学はすべての人々へもっともっと開かれなければならない、とりわけ大きな時代の変化のなかで揺れ動いている子どもたちや、貧困や非識字に苦しむ世界の多くの人々にむけて豊かな意味をもった多様な言葉や文学性を有した識字教育―ヒューマン・リテラシーが開始されなければならないと痛感した。

ベルリンの壁は世界史のなかでも特異な存在だと言われている。通常、壁の存在は外的からの侵略や進入にそなえて築くものであるが、ベルリンの壁は自国民を外に逃亡させない目的で作られているもので、いわば東ドイツという強制収容所から自由な国への脱出を防ぐような壁であった。

1989年11月の統一ドイツの半年前、壁を越えようとして殺された21歳の若者の墓標が、新緑の公園で6月の雨に濡れていた。「自由への逃亡」の犠牲者であった。

しかし今日、日本人も目標を失って「自由への逃亡」ではなく「自由からの逃亡」を試みてあがいているように見える。いったいどこへ向かおうというのだろうか? 

アフローの出身であるバージニア・ハミルトン氏がアメリカ大陸の奴隷の存在を描いた作品を語ったなかで「自由な想像力」が奴隷を元気付けた最も重要な価値であったと述べていたが、条件に弱い日本人は今、「自由な想像力」という人間の最も重要な価値を、ひょとしたらどこかに置き忘れたまま出発しようとしているのではないかと。

2001年6月